野に帰る屍になりたい。
人の子として生を受け35年、何度も何度も親離れの段階を経て来たけれど、自分が親になったことで再び大一番に直面している。
子育てとは、親の世代を乗り越え、次世代を生きる子どもと向き合うために常にアップデートを迫られる挑戦者の物語であり、
次なる挑戦者を育てた後は、超えられるべき屍になる宿命を喜んで受け入れ、その日の到来を願う日々のことなのだ。
きっと。
4歳の息子の頼りなくも頼もしい成長の日々に触れ、まだ始まったばかりの子育ての日々に振り回されながら、そんなことを実感している。
人の親となり、幾たびも限界に挑戦してきた。
身体も性器も乳首も、その本来の機能性を遺憾無く発揮し、恥の所在が根底から変わった妊娠・出産。
人間はどこまで睡眠を削れるか選手権のような、夜泣きとの戦い。
しかし、そのような肉体的な挑戦は一時的なものだし、どちらかというと母親の耐久戦の様相を呈しやすい。つまり、喉元を過ぎたら忘れられるような類のものだ。
一方で、親となった男と女の子育てにおける本当の戦いはまだまだ始まったばかり。
3歳頃から急速に言語的な発達を始めた子どもに、社会の仕組みや善悪の判断の教える段になり、子育てやしつけの方法論や価値観をめぐる母親と父親の仁義なき戦いの火蓋は切って落とされる。
例えばそれは、男と女の性差をめぐる戦いではなく、かつて子どもだった者たちが、育ててくれた親や家族、地域での経験や常識で武装するものであったりする。自分が人生を通して信じてきたことを頼りに正義を語るのだから、ことは簡単じゃないし、どこにでもありそうなテーマが地雷となる。
つまり、どういうことかというと、こんな風だ。
ラウンド1:「テレビを1日に何時間見せるべきか」
テレビからも学べる知識はある。映像作品は良き先生であり、エンターテイメントは制限する方が後々中毒性が高まると考える。子どもは楽しみながら言葉や文化、芸術に触れられる。
テレビを見せることを禁止すべきとまでは思っていないが、時間は制限すべき。テレビを見る時間を減らして、体を動かしたり、絵本やお絵かきなど感触のある作業に時間を割きたい。
この戦いを注意深く観察していくと、テレビを見せる派の主張の裏には、共働きの両親の苦労を知る優しい男の子の顔が見えてくる。その男の子は自宅が職場を兼ねる両親の背中を見て育ち、テレビのついた部屋で遊んでいた。工作が大好きで、紙とセロハンテープがあれば何でも自分で作れた!でも、もっと親に甘えたかった…のかもしれない。
また、テレビ制限派にも親の影がちらつく。転勤族の父親、家を守る母親。祖父母は遠く、慣れない土地で親子の生活は始まった。若かった両親にテレビの視聴時間を制限された覚えはないが、父がテレビを消すと言ったら消し、見ると言ったら見るという体制下、テレビのチャンネル権は大人のものと認識していた。
先制攻撃に出るのは、だいたいいつも赤コーナーの選手、外出先から帰ってきてチクリ。
ここを突きすぎると、「子どものためを思って!」から「俺が育てられた環境を否定するのか?!」と、子育ての方針の対立に止まらず、背後にそれぞれの親の顔がちらつく。
夫婦喧嘩の中で、最も難しい種類の喧嘩だ。育って来た環境の違い、親の違い、違って当たり前なんだけど、その違いを簡単には認め合えない。認めてしまったら、親はどうなる? 自分の親を守ろうとする子ども心がむくむくと湧いてくる。
私たちはみんな、人の子。だからその絆を断ち切る必要はない。でも、健康に乗り越える必要がある。
子育ての常識なんて、本当にコロコロ変わる。科学的に正しいとされることもどんどん更新されていく。20〜30年前の子育ての、しかも育てられた側の記憶を持ち出し、それが常識!と、消化しきれていない気持ちごと子どもに背負わせる前に、現実を直視する勇気を持ちたい。
親は過去の象徴。歴史に学ぶべきことは多いが、現実に対して盲目では意味がない。
息子よ、私という屍を、力強く、軽やかに乗り越えて行ってくれ。
それまでは全力で君を守りたい。